久 福 寺

久福寺小史
久福寺小史
当山は慶長九年(一六〇四)越後国、佐渡、阿仏房蓮華王山妙宣寺の僧、実証院日円上人により開山された寺です。
慶長九年といえば徳川家康が将軍となり江戸幕府を開いた翌年に当り会津では上杉景勝(謙信の養子家康のために会津百二十万石より九十万石を削られ米沢三十万石に移され(慶長六年、一六〇一)かわって宇都宮城主蒲生秀行(氏郷の一子)が再び会津六十万石城主として着任後、間もない頃です。開山日円上人は寛永十六年三月二十四日(一六三九)に遷化せられていますので開山後、当寺に三十五年間住されたことになります。

その間慶長十六年正月(開山後七年、一六一一)会津地方に局地的大地震があり、お城の石垣がくずれ、天守閣(当時七層)が傾き、喜多方の熊野神社の長床が崩壊したなどの記録から推して当寺も多分、破損され折角建立した堂宇も再び建てなほされた、ご苦労もあったことでしょう。

当山の宗祖ご尊像は元会津大沼郡軽井沢、西山銀山、珍宝山法華寺にあった古仏木彫説法像のご尊像で、この軽井沢銀山は若松城下より西二十数キロの山中で元和元年(一六一六)銀の発掘が始まり一時は千軒も家が出来繁栄したのですが寛永年間に至り除々に衰え所謂、ゴースト・タウンになってしまうのです。

寛永十年(一六三三)法華寺廃寺に際し宗祖御木像をはじめ諸仏を当寺に移し奉り今日に至ったのです。
祖師像に銘はありませんが、先年、宗宝調査会の認定によれば四百年前、天正年間の作に誤ちがいないとのことです。
現在準宗宝に認定されています。長い/\間、お経のあがった有難いご尊像でございます。伝えるところでは佐渡妙宣寺、東京杉並堀之内妙法寺のご尊像と、ともに一本三体として造られた厄除お祖師さまであるといわれて居ります。

当山、子育鬼子母神さまは第十一世日栄上人の代に当国城主松平金之助殿(第七代松平容衆公(泽2年|改限一辉在)の「御疱瘡御安泰御祈禱被仰付」以来、祈願人、門前市をなすようになったと過去帳に述べられています。

又過去帳には「文化八年春以来御祈禱御利益にあづかる人六百八十軒程也。其内七年或は三年、法華宗沢山有之」とも記されています。
当山の堂千、庫裡は寛保四年(一七四四)三月九日類焼しています。第八世大饒院日亮上人の代です。今から二五二年前のことです。
再建された建物はそのまゝ会津戦争(慶応四年、一八六八年)を迎え今度は焼失を免かれ昭和の御代までつェいたのです。

会津戦争といえば、その際、市内の寺々の大多数は焼失し久福寺周辺を見ましても妙法寺、蓮華寺、実相寺、清林寺など灰盡につきているのに不思議にも当寺は残ったのです。
拙僧は縁あって昭和十三年秋入寺し昭和十五年春正式に第二十代目の住職になりました。老朽化した建物は破損はなはだしく昭和十五年(一九四〇)改修が行われ本堂の位置を十米後方西に移動し茅屋根を亘葺にしたのですが費用が不足し内部の改修まで手が廻わらず中途半端になって仕舞ったのです。

それから四十年、昭和五十五年本格的大改修が行われることとなり檀信徒その他有縁の方々の勧進により、こゝに完成を見るに至ったのであります。本堂の大改修後、昭和六十年(一九八五)今度は庫裡の新建築が行われ従来の茅屋根の二百数十年たった庫裡を破棄し木造銅板葺、一部二階建の八十坪の客殿、庫裡を新築しました。これ又権信徒各位の寄進よって六十年末、完成を見ることになり久福寺の外観は本堂と共に一新されたのです。多分、久福寺建立当時のものより内、外共、秀いでた姿となったことと思います。さぞかし、お祖師さまも鬼子母神さまも歴代のお上人も皆さまのご先祖さまも、ご満足になられた

尚、当寺墓地中、現在残っているものの内会津藩の医師吉村寛泰先生の墓所があります。寛泰先生は医師よりも会津文芸諸流の歴史と日新館の構成をくわしく述べた
「日新館志」(文政六年〈一八二三〉三〇巻)を著したことで有名です。寛泰先生のご母堂が文化七年三月(一八一〇)供養のために奉納された石灯籠一対が今も本堂参道両側に現存しています。

当寺の宝物は会津戦争の混乱で、めぼしいものは残っていませんが幸い前述した宗祖ご尊像(準宗宝)並びに鬼子母神尊像が四百年の歴史を保ちつ、現存し、第八世日亮上人代寛保四年(一七四四)に画かれた「涅槃絵図が残存して居ります。
尚、当寺墓地中、現在残っているものの内会津藩の医師吉村寛泰先生の墓所があります。寛泰先生は医師よりも会津文芸諸流の歴史と日新館の構成をくわしく述べた
「日新館志」(文政六年〈一八二三〉三〇巻)を著したことで有名です。寛泰先生のご母堂が文化七年三月(一八一〇)供養のために奉納された石灯籠一対が今も本堂参道両側に現存しています。
当寺の宝物は会津戦争の混乱で、めぼしいものは残っていませんが幸い前述した宗祖ご尊像(準宗宝)並びに鬼子母神尊像が四百年の歴史を保ちつ、現存し、第八世日亮上人代寛保四年(一七四四)に画かれた「涅槃絵図が残存して居ります。
- この久福寺小史は左記の文献を参考に記したものです
- (平成10.8.1記)
- 一、
- 編会津風土記 巻之二十三、巻之七十五
- 一、
- 会津若松史」巻三、巻四、巻十一
- 一、
- 当山過去帳
- あとがき
- 久福寺は現住職で第二十世(代)目になりますが正式住職の代数で三百数十年の間には無住時代もあり仮住職の僧によって守られた時もあり檀家総代によって守られた時もあり今日あるは無名の人々の信仰の力であったことを忘すれてはなりません。種々の災害、戦乱、寺の浮沈これらを、一番知っているのは境内に立っている欅の大木なのではないでしょうか。四季折々の自然の中で嚴然と、そびえ人々の営みを、じっと見つめている欅の大木は久福寺の象徴です。 寺の歴史についての小史を、こゝに記しました。 久福寺第二十世自信院日弘